巻次
第三帖
968頁
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心さだまりぬれば、浄土の往生はうたがいなくおもうて、よろこぶこころなり。このゆえに弥陀如来の五劫・兆載永劫の御苦労を案ずるにも、われらをやすくたすけたまうことの、ありがたさ、とうとさをおもえば、なかなかもうすもおろかなり。されば『和讃』(正像末和讃)にいわく、「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」といえるは、このこころなり。また「正信偈」にはすでに「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」とあれば、いよいよ行住座臥・時処諸縁をきらわず、仏恩報尽のために、ただ称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年十月二十日、之を書く。

(七) 抑も、親鸞聖人のすすめたまうところの一義のこころは、ひとえにこれ末代濁世の在家無智のともがらにおいて、なにのわずらいもなく、すみやかにとく浄土に往生すべき、他力信心の一途ばかりをもって本とおしえたまえり。しかればそれ、阿弥陀如来は、すでに十悪五逆の愚人、五障三従の女人にいたるまで、ことごとくすくいましますといえることをば、いかなるひともよくしりはんべりぬ。しかるに、いまわれら凡夫は、阿弥陀仏をば、いかように信じ、なにとようにたのみまいらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞというに、ただひとすじに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくば、かならず極楽に往生すべし。この道理をもって、すなわち他力信心をえたるす