巻次
第三帖
802頁
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陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまえるいわれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらわしましましたる御すがたぞと、くわしくこころえわけたるをもって他力の信心をえたる人とはいうなり。この「南無」という二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまえとおもいて、余念なきこころを「帰命」とはいうなり。つぎに「阿弥陀仏」という四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくいたまうこころなり。このこころをすなわち摂取不捨とはもうすなり。摂取不捨というは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにおさめとりてすてたまわずといえるこころなり。されば、この南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまえる支証のために、御名を、この南無阿弥陀仏の六字にあらわしたまえるなりときこえたり。かくのごとくこころえわけぬれば、われらが極楽の往生は治定なり。あら、ありがたや、とうとやとおもいて、このうえには、はやひとたび弥陀如来にたすけられまいらせつるのちなれば、御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、この念仏をば、仏恩報謝の称名ともいい、また信のうえの称名とももうしはんべるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六年九月六日書之

6 それ南無阿弥陀仏ともうすは、いかなるこころぞなれば、まず「南無」という二字は、帰命と発願回向とのふたつのこころなり。また「南無」というは願なり。「阿弥陀仏」というは行なり。されば雑行雑善をなげすてて、専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、たすけたまえとおもう帰命の一念おこるとき、かたじけなくも遍照の光明をはなちて、行者を摂取したまうなり。このこころすなわち「阿弥陀仏」の四つの字のここ