巻次 第三帖 799頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 だにもひとつにさだまれば、やすく浄土へはまいるべきなり。このほかには、わずらわしき秘事といいて、ほとけをもおがまぬものはいたずらものなりとおもうべし。これによりて、阿弥陀如来の他力本願ともうすは、すでに末代いまのときの、つみふかき機を本としてすくいたまうがゆえに、在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。あら、ありがたの弥陀如来の誓願や。あら、ありがたの釈迦如来の金言や。あおぐべし、信ずべし。しかれば、いうところのごとくこころえたらんひとびとは、これまことに当流の信心を決定したる、念仏行者のすがたなるべし。さて、このうえには、一期のあいだもうす念仏のこころは、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまえるところの、雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。文明六年八月六日書之4 それ、倩人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、さかんなるものはついにおとろうるならいなり。さればただいたずらにあかし、いたずらにくらして、年月をおくるばかりなり。これまことになげきてもなおかなしむべし。このゆえに、上は大聖世尊よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも、うけがたきは人身、あいがたきは仏法なり。たまたま仏法にあうことをえたりというとも、自力修行の門は、末代なれば、いまのときは、出離生死のみちはかないがたきあいだ、弥陀如来の本願にあいたてまつらずは、いたずらごとなり。しかるにいますでに、われら弘願の一法にあうことをえたり。このゆえに、ただねがうべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信 紙面画像を印刷 前のページ p799 次のページ 第二版p963・964へ このページの先頭に戻る