巻次
第三帖
804頁
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夫は、阿弥陀仏をばいかように信じ、なにとようにたのみまいらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞというに、ただひとすじに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもって、すなわち他力信心をえたるすがたとはいうなり。そもそも、信心というは、阿弥陀仏の本願のいわれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもって、他力の安心を決定すとはもうすなり。されば、「南無阿弥陀仏」の六字のいわれをよくこころえわけたるをもって、信心決定の体とす。しかれば、「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」という四つの字のいわれは、弥陀如来の衆生をたすけたまえる法なり。このゆえに、機法一体の南無阿弥陀仏といえるはこのこころなり。これによりて、衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は、「彼此三業 不相捨離」(定善義)と釈したまえるも、このこころなり。されば一念帰命の信心決定せしめたらんひとは、かならずみな報土に往生すべきこと、さらにもってそのうたがいあるべからず。あいかまえて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとえば十人は十人ながら、みな真実報土の往生をとぐべし。このうえには、ひたすら弥陀如来の御恩のふかきことをのみおもいたてまつりて、つねに報謝の念仏をもうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明七年二月二十三日

8 そもそも、此の比、当国他国のあいだにおいて、当流安心のおもむき、事の外、相違して、みな人ごとに、