巻次
第四帖
814頁
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そのおもむきをあらわしおわりぬ。所詮自今已後は、同心の行者はこのことばをもって本とすべし。これについてふたつのこころあり。一つには、自身の往生すべき安心をまず治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに、宿善無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。この道理を心中に決定してたもつべし。しかればわが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくわえて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ、そのうえにはなお王法をさきとし、仁義を本とすべし。また諸仏菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもって、当流聖人のおきてをまもる真宗念仏の行者といいつべし。ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもって、本とする時分たるあいだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも、当流にたつるところの他力の三信というは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」(大経)といえり。これすなわち三信とはいえども、ただ弥陀をたのむところの、行者帰命の一心なり。そのゆえはいかんというに、宿善開発の行者、一念弥陀に帰命せんとおもうこころの一念おこるきざみ、仏の心光、かの一念帰命の行者を摂取したまう。その時節をさして、至心信楽欲生の三信ともいい、またこのこころを願成就の文には「即得往生住不退転」(大経)ととけり。あるいは、このくらいをすなわち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいうべし。されば弥陀に帰命すというも、信心獲得すというも、宿善にあらずということなし。しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよおしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを、聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)とおおせられたり。これによりて当流のここ