巻次
第五帖
834頁
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ば、諸仏の御ちからにては中々かなわざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申し奉るは、諸仏にすぐれて、十悪五逆の罪人を、我たすけんという大願をおこしましまして、阿弥陀仏となり給えり。この仏をふかくたのみて、一念、御たすけ候えと申さん衆生を、我たすけずは正覚ならじとちかいまします弥陀なれば、我等が極楽に往生せん事は、更にうたがいなし。このゆえに一心一向に、阿弥陀如来たすけ給えと、ふかく心にうたがいなく信じて、我が身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて、一念の信心さだまらん輩は、十人は十人ながら、百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事、更に、うたがいなし。このうえには、なおなお、とうとくおもいたてまつらんこころのおこらん時は、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいわず、所をもきらわず、念仏申すべし。これをすなわち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
5 信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆえに、南無と帰命する一念の処に、発願回向のこころあるべし。これすなわち弥陀如来の、凡夫に回向しましますこころなり。これを『大経』には「令諸衆生功徳成就」ととけり。されば無始已来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退のくらいに住すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといえるは、このこころなり。此の義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対して、かくのごとく沙汰あるべからざる所なり。能く能くこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
6 一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたえたまうこころを、『和讃』に、聖人の