巻次 第五帖 840頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 からざるものなり。 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していわく「「南無」というは帰命なり。またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」というはその行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをう」(玄義分)といえり。しかれば、この釈のこころをなにとこころうべきぞというに、たとえばわれらごときの悪業煩悩の身なりというとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめして、たすけたまうべし。それ帰命というは、すなわちたすけたまえともうすこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたえたまうを、発願回向とはもうすなり。この発願回向の大善大功徳を、われら衆生にあたえましますゆえに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば、一時に消滅したまうゆえに、われらが煩悩悪業はことごとくみなきえて、すでに正定聚不退転なんどいうくらいに住すとはいうなり。このゆえに「南無阿弥陀仏」の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらわせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば、安心というも、信心というも、この名号の六字のこころを、よくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆえに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。14 それ、一切の女人の身は、ひとしれずつみのふかきこと、上﨟にも下主にもよらぬ、あさましき身なりとおもうべし。それにつきては、なにとように弥陀を信ずべきぞというに、なにのわずらいもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまいらせて、今度の一大事の後生たすけたまえともうさん女人をば、あやまたずたすけたまう 紙面画像を印刷 前のページ p840 次のページ 第二版p1008・1009へ このページの先頭に戻る