巻次
第五帖
1008頁
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善の機ありて他力信心ということをばいますでにえたり。これしかしながら、弥陀如来の御かたよりさずけましましたる信心とは、やがてあらわにしられたり。かるがゆえに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心ということは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくも、ひとたび他力の信心をえたらんひとは、みな弥陀如来の御恩をおもいはかりて、仏恩報謝のために、つねに称名念仏をもうしたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
(一三) 夫れ、南無阿弥陀仏ともうす文字は、そのかずわずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきわまりなきものなり。されば信心をとるというも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この南無阿弥陀仏の六字を、善導釈していわく、「「南無」というは帰命なり。またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」というはその行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをう」(玄義分)といえり。しかれば、この釈のこころをなにとこころうべきぞというに、たとえば、われらごときの悪業煩悩の身なりというとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまうべし。それ、「帰命」というは、すなわちたすけたまえともうすこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたえたまうを、「発願回向」とはもうすなり。この発願回向の大善・大功徳を、われら衆生にあたえましますゆえに、無始曠劫よりこ