巻次
第五帖
1007頁
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なわちその行」(玄義分)といえり。南無という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。さて阿弥陀仏という四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、すなわち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいうなり。これすなわち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
(一二) 当流の安心のおもむきをくわしくしらんとおもわんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身はつみふかきあさましきものなりとおもいとりて、かかる機までもたすけたまえるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのようもなく、ひとすじにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまいらするおもいをなして、後生をたすけたまえとたのみもうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおおきなる光明をはなちて、その光明のなかにそのひとをおさめいれておきたまうべし。さればこのこころを、『経』(観経)には「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とはとかれたりとこころうべし。さては、わが身の、ほとけにならんずることは、なにのわずらいもなし。あら、殊勝の超世の本願や。ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあいたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしきやまいの、なおるということは、さらにもってあるべからざるものなり。しかるにこの光明の縁にもよおされて、宿