巻次
第五帖
1006頁
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(一〇) 聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候う。そのゆえは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう。そのくらいを「一念発起入正定之聚」(論註)とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生をさだめたまいし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
(一一) 抑も、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもいて、聖人の御まえにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もってのほかの大事なり。そのゆえは、信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひとも、すみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかいなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがうべきものなり。されば当流には、信心のかたをもって、さきとせられたる、そのゆえをよくしらずは、いたずらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがうべきなり。それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』(大経)にいわく、「聞其名号信心歓喜」といえり。善導のいわく、「「南無」というは帰命、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」というはす