巻次
第五帖
838頁
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御まえにまいらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし。また不信心のともがらもあるべし。もってのほかの大事なり。そのゆえは、信心を決定せずは、今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひとも、すみやかに決定のこころをとるべし。人間は不定のさかいなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがうべきものなり。されば当流には、信心のかたをもってさきとせられたる、そのゆえをよくしらずは、いたずらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがうべきなり。それ人間に流布してみなひとのこころえたるとおりは、なにの分別もなく、くちにただ称名ばかりをとなえたらば、極楽に往生すべきようにおもえり。それはおおきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるというも、別のことにはあらず。「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころをよくしりたるをもって、信心決定すとはいうなり。そもそも信心の体というは、『経』にいわく「聞其名号 信心歓喜」(大経)といえり。善導のいわく「南無というは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というはすなわちその行」(玄義分)といえり。「南無」という二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、うたがいなく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」という四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、ようもなくたすけたまえるいわれが、すなわち「阿弥陀仏」の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいうなり。これすなわち他力の信心をよくこころえたる、念仏の行者とはもうすなり。あなかしこ、あなかしこ。
12 当流の安心のおもむきをくわしくしらんとおもわんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身