巻次 - 923頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 いま真実心というは、浄土をもとめ穢土をいとい、仏の願を信ずること、真実のこころにてあるべしとなり。かならずしも、はじをあらわにし、とがをしめせとにはあらず。ことにより、おりにしたがいてふかく酙酌すべし。善導の釈にいわく、「不得外現賢善精進之相 内懐虚仮」(散善義)といえり。ふたつに深心というは、信心なり。まず信心の相をしるべし。信心というは、ふかく人のことばをたのみて、うたがわざるなり。たとえば、わがために、いかにも、はらぐろかるまじく、ふかくたのみたる人の、まのあたりよくよくみたらんところをおしえんに、「そのところには、やまあり、かしこには、かわあり」といいたらんを、ふかくたのみて、そのことばを信じてんのち、また人ありて、「それはひがごとなり、やまなし、かわなし」というとも、いかにも、そらごとすまじき人のいいてしことなれば、のちに百千人のいわんことをばもちいず、もとききしことをふかくたのむ、これを信心というなり。いま、釈迦の所説を信じ、弥陀の誓願を信じてふたごころなきこと、またかくのごとくなるべし。いまこの信心につきてふたつあり。ひとつには、わがみは罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。ふたつには、決定してふかく阿弥陀仏の四十八願、衆生を摂取したまうことを、うたがわざれば、かの願力にのりて、さだめて往生することをうと信ずるなり。よの人つねにいわく、「仏の願を信ぜざるにはあらざれども、わがみのほどをはからうに、罪障のつもれることはおおく、善心のおこることはすくなし。こころつねに散乱して一心をうることかたし。身とこしなえに懈怠にして精進なることなし。仏の願ふかしというとも、いかでかこのみをむかえたまわん」と。このおもいまことにかしこきににたり、憍慢をおこさず高貢のこころなし。しかはあれども、仏の不 紙面画像を印刷 前のページ p923 次のページ 第二版p1102~1104へ このページの先頭に戻る