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り。『大経』(往生礼讃大経意)に「爾時聞一念」とも、「聞名歓喜讃」ともいうは、このこころなり。よそにさしのけてはなくして、やがてわが往生、すでに成じたる名号、わが往生したる御すがた、とみるを、名号をきくとも形像をみるともいうなり。このことわりをこころうるを本願を信知すとはいうなり。念仏三昧において、信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもうべきなり。ひとの身をば、地水火風の四大、よりあいて成ず。小乗には極微の所成といえり。身を極微にくだきてみるとも、報仏の功徳のそまぬところはあるべからず。されば機法一体の身も、南無阿弥陀仏なり。こころは、煩悩・随煩悩等具足せり。刹那刹那に生滅す。こころを刹那にちわりてみるとも、弥陀の願行の遍ぜぬところなければ、機法一体にして、こころも南無阿弥陀仏なり。弥陀大悲のむねのうちに、かの常没の衆生みちみちたるゆえに、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが迷倒のこころのそこには、法界身の仏の功徳、みちみちたまえるゆえに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。浄土の依正二報もしかなり。依報は、宝樹の葉ひとつも極悪のわれらがためならぬことなければ、機法一体にして南無阿弥陀仏なり。正報は眉間の白毫相より千輻輪のあなうらにいたるまで、常没の衆生の願行成就せる御かたちなるゆえに、また機法一体にして南無阿弥陀仏なり。われらが道心、二法、三業、四威儀すべて報仏の功徳のいたらぬところなければ、南無の機と阿弥陀仏の片時もはなるることなければ、念々みな南無阿弥陀仏なり。されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なければ、みな南無阿弥陀仏の体なり。縛日羅冒地といいしひとは、常水観をなししかば、こころにひかれて身もひとつのいけとなりき。その法にそみぬれば色心正法それになりかえることなり。念仏三昧の領解ひらけな