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陀という名号をきく。しるべし、われらが往生すでに成ぜりということを。きくというは、ただおおように名号をきくにあらず、本願他力の不思議をききて、うたがわざるを、きくとはいうなり。御名をきくも本願より成じてきく。一向に他力なり。たとい、凡夫の往生成じたまいたりとも、その願成就したまえる御名をきかずは、いかでかその願成ぜりとしるべき。かるがゆえに、名号をききても、形像を拝しても、わが往生を成じたまえる御名ときき、われらをわたさずは、仏にならじと、ちかいたまいし法蔵の誓願むなしからずして、正覚成じたまえる御すがたよとおもわざらんは、きくともきかざるがごとし、みるともみざるがごとし。『平等覚経』にのたまわく、「浄土の法門をとくをききて、歓喜踊躍し、身の毛いよだつ」というは、そぞろによろこぶにあらず。わが出離の行をはげまんとすれば、道心もなく、智恵もなし。智目行足かけたる身なれば、ただ三悪の火坑にしずむべき身なるを、願も行も仏体より成じて、機法一体の正覚成じたまいけることの、うれしさよとおもうとき、歓喜のあまり、おどりあがるほどにうれしきなり。『大経』(往生礼讃)に「爾時聞一念」とも、「聞名歓喜讃」ともいうは、このこころなり。よそにさしのけてはなくして、やがてわが往生、すでに成じたる名号、わが往生したる御すがたとみるを、名号をきくとも形像をみるともいうなり。このことわりをこころうるを本願を信知すとはいうなり。
 念仏三昧において、信心決定せんひとは、身も南無阿弥陀仏、こころも南無阿弥陀仏なりとおもうべきなり。ひとの身をば、地・水・火・風の四大、よりあいて成ず。小乗には極微の所成とい