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1133頁
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とおもうべし。機をいえば、仏法と世俗との二種の善根なき唯知作悪の機に、仏体より恒沙塵数の功徳を成就するゆえに、われらがごとくなる愚痴悪見の衆生のための、楽のきわまりなるゆえに、極楽というなり。本願を信じ名号をとなうとも、よそなる仏の功徳とおもうて、名号に功をいれなば、などか往生をとげざらんなんどおもわんは、かなしかるべきことなり。ひしと、われらが往生成就せしすがたを、南無阿弥陀仏とはいいけるという信心おこりぬれば、仏体すなわちわれらが往生の行なるがゆえに、一声のところに往生を決定するなり。阿弥陀仏という名号をきかば、やがてわが往生とこころえ、わが往生はすなわち仏の正覚なりとこころうべし。弥陀仏は正覚成じたまえるか、いまだ成じたまわざるかをば、うたがうとも、わが往生の成ずるか、成ぜざるかをば、うたがうべからず。一衆生のうえにも往生せぬことあらば、ゆめゆめ仏は正覚なりたまうべからず。ここをこころうるを、第十八の願をおもいわくとはいうなり。まことに往生せんとおもわば、衆生こそ願をもおこし、行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを、「別異の弘願」(玄義分)とほめたまえり。衆生にかわりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして、善人におよぶまで、一衆生のうえにもおよばざるところあらば、大悲の願、満足すべからず。面々衆生の機ごとに、願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。かかる不思議の名号、もしきこえざるところあらば、正覚とらじとちかいたまえり。われらすでに阿弥