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をとなうれども、たのみがたき往生なり。たとえば、ときどきひとに見参、みやづかいするににたり。そのゆえは、いかにして仏の御こころにかなわんずるとおもい、仏に追従して往生の御恩をも、かぶらんずるようにおもうほどに、機の安心と仏の大悲とがはなればなれにて、つねに仏にうとき身なり。このくらいにては、まことにきわめて往生不定なり。念仏三昧というは、報仏弥陀の大悲の願行はもとより、まよいの衆生の心想のうちにいりたまえり、しらずして仏体より機法一体の南無阿弥陀仏の正覚に成じたまうことなり、と信知するなり。願行みな仏体より成ずることなるがゆえに、おがむ手、となうるくち、信ずるこころ、みな他力なりというなり。かるがゆえに、機法一体の念仏三昧をあらわして、第八の観には、「諸仏如来 是法界身 入一切衆生心想中」(観経)、ととく。これを釈するに、「法界というは所化の境、すなわち衆生界なり」(定善義)といえり。定善の衆生ともいわず、道心の衆生ともとかず、法界の衆生を所化とす。「法界というは、所化の境、衆生界なり」、と釈する、これなり。まさしくは、こころいたるがゆえに、身もいたる、といえり。弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうち、こころのそこにいりみつゆえに、「入一切衆生心想中」ととくなり。ここを信ずるを、念仏衆生というなり。また真身観には、「念仏衆生の三業と、弥陀如来の三業と、あいはなれず」(定善義)と釈せり。仏の正覚は衆生の往生より成じ、衆生の往生は、仏の正覚より成ずるゆえに、衆生の三業と仏の三業とまったく一体なり。仏の正覚のほかに衆生の往生もなく、願も行もみな仏体より成じたまえりと、しりきくを、念仏の衆生といい、この信心の、ことばにあらわるるを、南無阿弥陀仏という。かるがゆえに、念仏の行者になりぬれば、いかに仏をはなれんとおもうとも、微塵のへだてもなきことなり。仏のかた