巻次
1136頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

けるものを、という信心のおこるを、念仏というなり。
 さてこの領解をことわりあらわせば、南無阿弥陀仏というにてあるなり。この仏の心は大慈悲を本とするゆえに、愚鈍の衆生をわたしたまうをさきとするゆえに、名体不二の正覚をとなえましますゆえに、仏体も名におもむき、名に体の功徳を具足するゆえに、なにと、はかばかしくしらねども、平信のひとも、となうれば往生するなり。されども下根の凡夫なるゆえに、そぞろに、ひら信じもかなうべからず。そのことわりをききひらくとき、信心はおこるなり。念仏をもうすとも往生せぬをば「名義に相応せざるゆえ」(論註)とこそ、曇鸞も釈したまえ。「名義に相応す」というは、阿弥陀仏の功徳力にて、われらは往生すべしとおもうて、となうるなり。領解の信心を、ことばにあらわすゆえに、南無阿弥陀仏の六字をよくこころうるを、三心というなり。かるがゆえに、仏の功徳、ひしとわが身に成じたりとおもいて、くちに南無阿弥陀仏ととなうるが、三心具足の念仏にてあるなり。自力のひとの念仏は、仏をばさしのけて西方におき、わが身をばしらじらとある凡夫にて、ときどきこころに仏の他力をおもい、名号をとなうるゆえに、仏と衆生と、うとうとしくして、いささか道心おこりたるときは、往生もちかくおぼえ、念仏もものうく、道心もさめたるときは、往生もきわめて不定なり。凡夫のこころとしては、道心をおこすこともまれなれば、つねには往生不定の身なり。もしやもしやと、まてども、往生は臨終までおもいさだむることなきゆえに、くちにときどき名号をとなうれども、たのみがたき往生なり。たとえば、ときどきひと