巻次 - 681頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「復」は、またという、かさぬという。しかれば、また「専」というは、一心なれとなり。一行一心をもっぱらなれとなり。「専」は、一ということばなり。もっぱらというは、ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを「専」というなり。この一行一心なるひとを摂取してすてたまわざれば、阿弥陀となづけたてまつると、光明寺の和尚(善導)はのたまえり。 この一心は横超の信心なり。横は、よこさまという。超は、こえてという。よろずの法にすぐれて、すみやかに、とく生死海をこえて、仏果にいたるがゆえに、超ともうすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は、摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を、世親菩薩は「願作仏心」(論註)とのたまえり。この信楽は、仏にならんとねがうともうすこころなり。この願作仏心は、すなわち度衆生心なり。この度衆生心ともうすは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は、衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり。この信心をうるを慶喜というなり。慶喜するひとは、諸仏とひとしきひととなづく。慶は、よろこぶという。信心をえてのちに、よろこぶなり。喜は、こころのうちに、よろこぶこころたえずして、つねなるをいう。うべきことをえてのちに、みにも、こころ 紙面画像を印刷 前のページ p681 次のページ 初版p555・556へ このページの先頭に戻る