巻次 - 783頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 おぼえそうろう。いずれもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。 露命わずかに枯草の身にかかりてそうろうほどにこそ、あいともなわしめたまうひとびとの御不審をもうけたまわり、聖人(親鸞)のおおせのそうらいしおもむきをも、もうしきかせまいらせそうらえども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてそうらわんずらめと、なげき存じそうらいて、かくのごとくの義ども、おおせられあいそうろうひとびとにも、いいまよわされなんどせらるることのそうらわんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあいかないて御もちいそうろう御聖教どもを、よくよく御らんそうろうべし。おおよそ聖教には、真実権仮ともにあいまじわりそうろうなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちいるこそ、聖人(親鸞)の御本意にてそうらえ。かまえてかまえて聖教をみみだらせたまうまじくそうろう。大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせそうろうて、目やすにして、この書にそえまいらせてそうろうなり。 聖人(親鸞)のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしことを、いままた案ずるに、善導の、「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)という金言に、すこしもたがわせおわしまさず。されば、かたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしら 紙面画像を印刷 前のページ p783 次のページ 初版p639・640へ このページの先頭に戻る