巻次 - 842頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 かれば、なにによりてか「因果撥無の機あるべし」ということをいわんや。もっともこの名言、他力の宗旨をもっぱらにせらるる当流にそむけり。かつてうかがいしらざるゆえか。はやく停止すべし。(18)一 本願寺の聖人の御門弟と号する人々のなかに、知識をあがむるをもって弥陀如来に擬し、知識所居の当体をもって別願真実の報土とすという、いわれなき事。 それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてしばらくさしおく。八宗の高祖とあがめ奉る龍樹菩薩の所造『十住毘婆沙論』のごときんば、「菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、ふたつには易行道。その難行道というは多途あり。粗五三をあげて義のこころをしめさん」といえり。「易行道というは、ただ信仏の因縁をもって浄土にうまれんと願ずれば、仏力住持してすなわち大乗正定の聚にいれたまう」といえり。曾祖師黒谷の先徳、これをうけて、「難行道というは聖道門なり、易行道というは浄土門なり」(選択集)とのたまえり。これすなわち、聖道・浄土の二門を混乱せずして、浄土の一門を立せんがためなり。しかるに、聖道門の中に大小乗・権実の不同ありといえども、大乗所談の極理とおぼしきには、己身の弥陀・唯心の浄土と談ずるか。この所談においては、聖のためにして凡のためにあらず。かるがゆえに、浄土の教門はもっぱら凡夫引入のためなるがゆえに、己身の観法もおよばず、唯心の自説もかなわず、ただとなりのたからをかぞうるににたり。これによりて、すでに別して浄 紙面画像を印刷 前のページ p842 次のページ 初版p692へ このページの先頭に戻る