巻次
第二帖
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の行者とはいうなり。このうえには、ただねてもおきても、へだてなく念仏をとなえて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

文明六歳三月十七日、之を書く。

(一〇) 夫れ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころというは、まず他力の信心をもって肝要とせられたり。この他力の信心ということをくわしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもってかなうべからずと、経釈ともにあきらかにみえたり。されば、その他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもうについても、いかようにこころをももち、またいかように機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくわしくしりはんべらず。ねんごろにおしえたまうべし。それを聴聞して、いよいよ堅固の信心をとらんとおもうなり。
 こたえていわく、そもそも当流の他力信心のおもむきともうすは、あながちにわが身のつみのふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪五逆の罪人も、五障三従の女人までも、みなたすけたまえる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願をうたがうこころなければ、かたじけなくもその心を、如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを、如来のよき御こころとおなじものになしたまうなり。このいわれをもって、仏心と凡心と一体になるといえるは、このこころなり。これによりて、弥陀如来の遍照の光明のなかにおさめとられまいらせて、一期のあいだはこの光明のうちにすむ身なりとおもうべし。さて、い