巻次 行 174頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 邪正あい交わり、一多雑現するにあらずや。答えて曰わく、仏と仏と斉しく証して、形、二の別なし。たとい一を念じて多を見ること、何の大道理にか乖かんや。また『観経』に云うがごとし。「勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みな須らく面を西方に向かうは最勝なるべし。」樹の先より傾けるが倒るるに、必ず曲がれるに随うがごとし。かるがゆえに、必ず事の碍ありて西方に向かうに及ばずは、ただ西に向かう想を作すに、また得たり。問うて曰わく、一切諸仏、三身同じく証し、悲智果円にして、また無二なるべし。方に随いて一仏を礼念し課称せんに、また生まるることを得べし。何がゆえぞ、ひとえに西方を嘆じて専ら礼念等を勧むる、何の義かあるや。答えて曰わく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもって来し取るに、因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明名号をもって十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽くし、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもって往生を得易し。このゆえに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かうるを別異と為ならくのみと。またこれ余仏を称念して、障を除き罪を滅することあたわざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念念相続して、畢命を期とする者は、十即十生、百即百生なり。何をもってのゆえに。外の雑縁なし、正念を得たるがゆえに、仏の本願と相応を得るがゆえに、教に違せざるがゆえに、仏語に随順するがゆえなり、と。已上 また云わく、ただ念仏の衆生を観そなわして、摂取して捨てざるがゆえに、阿弥陀と名づく、と。已上 また云わく、弥陀の智願海は深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲えば、みなことごとくかの国に到ると。たとい大千に満てらん火にも、直ちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃すれば、みな当に彼 紙面画像を印刷 前のページ p174 次のページ 第二版p189・190へ このページの先頭に戻る