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 問うて曰わく、『業道経』に言わく、「業道は称のごとし、重き者先づ牽く」と。『観無量寿経』に言うがごとし。「人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を径歴して無量の苦を受くべし。命終の時に臨みて、善知識教えて南無無量寿仏を称せしむるに遇わん。かくのごとき心を至して声をして絶えざらしめて、十念を具足すれば、すなわち安楽浄土に往生することを得て、すなわち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん、三塗のもろもろの苦と永く隔つ。」「先ず牽く」の義、理においていかんぞ。また曠劫より已来備にもろもろの行を造れる、有漏の法は三界に繫属せり。ただ十念をもって阿弥陀仏を念じてすなわち三界を出でば、繫業の義、また云何がせんとするや。答えて曰わく、汝、五逆・十悪・繫業等を重とし、下下品の人の十念をもって軽として、罪のために牽かれて先ず地獄に堕して、三界に繫在すべしと謂わば、今当に義をもって、軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少に在るにはあらざるなり。いかんが心に在る、と。かの罪を造る人は、自らが虚妄顚倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識、方便安慰して実相の法を聞かしむるに依って生ず。一は実、一は虚なり、あに相比ぶることを得んや。たとえば千歳の闇室に、光もししばらく至ればすなわち明朗なるがごとし。闇あに室にあること千歳にして去らじと言うことを得んや。これを「在心」と名づく。いかんが縁に在る、と。かの罪を造る人は、自らが妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生に依って生ず。この十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳・真実清浄・無量功徳の名号に依って生ず。たとえば人ありて毒の箭を被りて中るところ筋を截り骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けばすなわち箭出け毒除こるがごとし。 『首楞厳経』に言わく、たと