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えば薬あり、名づけて滅除と曰う。もし闘戦の時にもって鼓に塗るに、鼓の声を聞く者、箭出け毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩もまたかくのごとし、首楞厳三昧に住してその名を聞く者、三毒の箭、自然に抜出すと。 あに「かの箭深く毒厲しからん、鼓の音声を聞くとも箭を抜き毒を去ることあたわじ」と言うことを得べけんや。これを「在縁」と名づく。いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は、有後心・有間心に依止して生ず。この十念は、無後心・無間心に依止して生ず。これを「決定」と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重き者先ず牽きて、よく三有を出ず。両経一義なるならくのみ、と。
 問うて曰わく、幾ばくの時をか、名づけて「一念」とするや。答えて曰わく、百一の生滅を「一刹那」と名づく。六十の刹那を名づけて「一念」とす。この中に「念」と云うは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相・もしは別相、所観の縁に随いて、心に他想なくして十念相続するを、名づけて「十念」とすと言うなり。ただし名号を称することも、またかくのごとし。
 問うて曰わく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて、念の多少を知るべし。ただ多少を知らば、また間なきにあらず。もし心を凝らし想を注めば、また何に依ってか念の多少を記することを得べきや。答えて曰わく、『経』に「十念」と言うは、業事成弁を明かすならくのみと。必ずしも須らく頭数を知るべからざるなり。蟪蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや、と言うがごとし。知る者これを言うならくのみと。「十念業成」とは、これまた神に通ずる者、これを言うならくのみと。ただ念を積み相続して、他事を縁ぜざればすなわち罷みぬ、また何ぞ仮に念の頭数を知ることを須いんや。もし必ず知ることを須いば、また方便