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畢竟じて身等しく法等し、と。龍樹菩薩・婆藪槃頭菩薩の輩、彼に生まれんと願ずるは、当にこのためなるべしならくのみと。問うて曰わく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、ようやく無量の功勲あり。多くの劫数を径。しこうして後、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつる時、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきや。答えて曰わく、畢竟とは、未だすなわち等しというにはあらずとなり、と。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆえに、等しと言うならくのみ、と。問うて曰わく、もしすなわち等しからずは、また何ぞ菩薩と言うことを得ん。ただ初地に登れば、もってようやく増進して、自然に当に仏と等しかるべし。何ぞ仮に上地の菩薩と等しと言うや。答えて曰わく、菩薩七地の中にして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんとす。その時にもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなわち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなわちこの難なけん。このゆえに須らく畢竟平等と言うべし。また次に『無量寿経』の中に、阿弥陀如来の本願に言わく、「設い我仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ」と。この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。「十地の階次」というは、これ釈迦如来、閻浮提にして、一つの応化道ならくのみ、と。他方の浄土は、何ぞ必ずし