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観ず。既にこの主を知りぬ。主いかなる増上かましますと。このゆえに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。菩薩を観ぜば、「いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまえることありと、知るべし」(論)。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずれば、すなわちこれ不行なり。不行にして行ずるを、如実修行と名づく。体はただ一如にして、義をして分かちて四とす。このゆえに四行、一をもって正しくこれを〓【gai_a】ぬ。「何ものをか四とする。一には、一仏土において身動揺せずして十方に遍す。種種に応化して実のごとく修行して、常に仏事を作す。「偈」に「安楽国は清浄にして、常に無垢の輪を転ず。化仏菩薩は、日の須弥に住持するがごときのゆえに」と言えり。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆえに」(論)とのたまえり。八地已上の菩薩は、常に三昧にありて、三昧力をもって、身本処を動ぜずしてよく遍く十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。「無垢輪」とは仏地の功徳なり。仏地の功徳は、習気・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のために常にこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもって、一切を開導して暫時も休息なけん。かるがゆえに常転と言う。法身は日のごとくして、応化身の光、もろもろの世界に遍ずるなり。「日」と言わば、未だもって不動を明かすに足らざれば、また如須弥住持と言うなり。「淤泥華」とは『経』(維摩経)に言わく、「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず。」これは、凡夫煩悩の泥の中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩う。諒にそれ三宝を紹隆して常に絶えざらしむと。「二には、かの応化身、一切の時、前ならず後ならず、一心一念に、大光明を放ちて、ことごとくよく遍く十