巻次 化本 353頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 にして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆえに繫念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人かくのごときの四事を修習せん、これを、没して、没し已りて還りて出ず、出で已りて還りて没す、と名づく。何がゆえぞ「没」と名づくる、三有を楽うがゆえに。何がゆえぞ「出」と名づくる、明を見るをもってのゆえに。「明」はすなわちこれ戒・施・定を聞くなり。何をもってのゆえに還りて出没するや。邪見を増長し、憍慢を生ずるがゆえに。このゆえに我経の中において偈を説かく、「もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する、この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて解脱を得といえども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く、これを暫出還復没と名づく」と。如来にすなわち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は、常楽我浄なし。無為涅槃は、常楽我浄あり。(乃至)この人、深くこの二種の戒ともに善果ありと信ぜん。このゆえに名づけて戒不具足とす、この人は信・戒の二事を具せず。所楽多聞にして、また不具足なり。いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。略抄 (徳王品)また言わく、善男子、第一真実の善知識は、いわゆる菩薩、諸仏なり。世尊、何をもってのゆえに。 紙面画像を印刷 前のページ p353 次のページ 第二版p413~415へ このページの先頭に戻る