巻次 化本 362頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 般若論会釈)に云わく、「正法五百年、像法一千年、この千五百年の後正法滅尽せん」と。かるがゆえに知りぬ、已後はこれ末法に属す。問う。もししからば今の世は正しくいずれの時にか当るや。答う。滅後の年代多説ありといえども、しばらく両説を挙ぐ。一つには法上師等、『周異』の説に依って言わく、「仏、第五の主、穆王満五十一年壬申に当りて入滅したまう」と。もしこの説に依らば、その壬申より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なりと。二つには費長房等、魯の『春秋』に依らば、「仏、周の第二十一の主、匡王班の四年壬子に当りて入滅したまう。」もしこの説に依らば、その壬子より我が延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。かるがゆえに今の時のごときは、これ最末の時なり。かの時の行事、すでに末法に同ぜり。しかればすなわち末法の中においては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、何の戒を破せんに由ってか破戒あらんや。破戒なおなし、いかにいわんや持戒をや。かるがゆえに『大集』に云わく、「仏涅槃の後、無戒洲に満たん」と、云云。 問う。諸経律の中に、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なお爾なり、いかに況や無戒をやと。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして自らもって傷まんや、と。答う。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗誰か披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし今論ずるところの末法には、ただ名字の比丘あらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとい末法の中に持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これ誰か信ずべきや。問う。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、 紙面画像を印刷 前のページ p362 次のページ 第二版p425~427へ このページの先頭に戻る