巻次 正像末 511頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 しむるを法爾という。この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり。 自然というは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききてそうろう。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり。無上仏ともうすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆえに、自然とはもうすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とはもうさず。かたちもましまさぬようをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならいてそうろう。弥陀仏は、自然のようをしらせんりょうなり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということは、なお義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。よしあしの文字をもしらぬひとはみなまことのこころなりけるを善悪の字しりがおはおおそらごとのかたちなり是非しらず邪正もわかぬこのみなり小慈小悲もなけれども名利に人師をこのむなり 已上右斯三帖和讃幷正信偈四帖一部者末代為興際板木開之者也而已文明五年 癸巳 三月 日(蓮如花押) 紙面画像を印刷 前のページ p511 次のページ 第二版p625・626へ このページの先頭に戻る