巻次 正像末 510頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 16仏法あなずるしるしには比丘比丘尼を奴婢として法師僧徒のとうとさも僕従ものの名としたり 已上十六首これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。この世の本寺本山のいみじき僧ともうすも法師ともうすも うきことなり。釈親鸞書之1善光寺の如来のわれらをあわれみましましてなにわのうらにきたります御名をもしらぬ守屋にて2そのときほとおりけともうしける疫癘あるいはこのゆえと守屋がたぐいはみなともにほとおりけとぞもうしける3やすくすすめんためにとてほとけと守屋がもうすゆえときの外道みなともに如来をほとけとさだめたり4この世の仏法のひとはみな守屋がことばをもととしてほとけともうすをたのみにて僧ぞ法師はいやしめり5弓削の守屋の大連邪見きわまりなきゆえによろずのものをすすめんとやすくほとけともうしけり親鸞八十八歳御筆 獲の字は、因位のときうるを獲という。得の字は、果位のときにいたりてうることを得というなり。名の字は、因位のときのなを名という。号の字は、果位のときのなを号という。自然というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。法爾というは、如来の御ちかいなるがゆえに。しから 紙面画像を印刷 前のページ p510 次のページ 第二版p624・625へ このページの先頭に戻る