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ほとけと守屋がもうすゆえ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
(4)この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけともうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
(5)弓削の守屋の大連
邪見きわまりなきゆえに
よろずのものをすすめんと
やすくほとけともうしけり
親鸞八十八歳御筆
「獲」の字は、因位のときうるを「獲」という。「得」の字は、果位のときにいたりてうることを「得」というなり。「名」の字は、因位のときのなを「名」という。「号」の字は、果位のときのなを「号」という。
「自然」というは、「自」はおのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。「然」というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず。如来のちかいにてあるがゆえに。「法爾」というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを「法爾」という。この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、「他力には義なきを義とす」としるべきなり。
「自然」というは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんと、はからわ
