巻次 正像末 625頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ほとけと守屋がもうすゆえときの外道みなともに如来をほとけとさだめたり(4)この世の仏法のひとはみな守屋がことばをもととしてほとけともうすをたのみにて僧ぞ法師はいやしめり(5)弓削の守屋の大連邪見きわまりなきゆえによろずのものをすすめんとやすくほとけともうしけり親鸞八十八歳御筆 「獲」の字は、因位のときうるを「獲」という。「得」の字は、果位のときにいたりてうることを「得」というなり。「名」の字は、因位のときのなを「名」という。「号」の字は、果位のときのなを「号」という。 「自然」というは、「自」はおのずからという。行者のはからいにあらず。しからしむということばなり。「然」というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず。如来のちかいにてあるがゆえに。「法爾」というは、如来の御ちかいなるがゆえに、しからしむるを「法爾」という。この法爾は、御ちかいなりけるゆえに、すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、「他力には義なきを義とす」としるべきなり。 「自然」というは、もとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんと、はからわ 紙面画像を印刷 前のページ p625 次のページ 初版p510・511へ このページの先頭に戻る