巻次 末 529頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 ようやく仏道を修して、三祇・百大劫をへて仏になるなり。頓は、この娑婆世界にして、このみにてたちまちに仏になるともうすなり。これすなわち仏心・真言・法華・華厳等のさとりをひらくなり。「機有奢促者」というは、機に奢促あり。奢はおそきこころなるものあり。促はときこころなるものあり。このゆえに「行有難易」というは、行につきて難あり、易ありとなり。難は聖道門、自力の行なり。易は浄土門、他力の行なり。「当知聖道諸門漸教也」というは、すなわち難行なり、また漸教なりとしるべしとなり。「浄土一宗者」というは頓教なり。また易行なりとしるべしとなり。「所謂真言・止観之行」というは、真言は密教なり、止観は法華なり。「獼猴情難学」というは、この世の人のこころをさるのこころにたとえたるなり。さるのこころのごとくさだまらずとなり。このゆえに真言・法華の行は修しがたく行じがたしとなり。「三論法相之教牛羊眼易迷」というは、この世の仏法者のまなこを、うし、ひつじのまなこにたとえて、三論・法相宗等の聖道自力の教にはまどうべしとのたまえるなり。「然至我宗者」というは、聖覚和尚ののたまわく、わが浄土宗は、弥陀の本願の実報土の正因として乃至十声・一声、称念すれば、無上菩提にいたるとおしえたまう。善導和尚の御おしえには、三心を具すればかならず安楽にうまるとのたまえるなりと、聖覚和尚ののたまえるなり。「雖非利智精進」というは、智慧もなく、精進のみにもあらず、鈍根懈怠のものも専修専念の信心をえつれば、往生すとこころうべしとなり。「然我大師聖人」というは、聖覚和尚は、聖人を、わが大師聖人とあおぎたのみたまう御ことばなり。「為釈尊之使者弘念仏之一門」というは、源空聖人は釈迦如来の御つかいとして念仏の一門をひろめたまうとしるべしとなり。「為善導之再誕勧称名之一行」というは、聖人は善導和尚の御身 紙面画像を印刷 前のページ p529 次のページ 第二版p647・648へ このページの先頭に戻る