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ころと、もうすなり。「常照是人」というは、「常」は、つねなること、ひまなく、たえずというなり。「照」は、てらすという。ときをきらわず、ところをへだてず、ひまなく、真実信心のひとをばつねにてらし、まもりたまうなり。かの仏心に、つねにひまなくまもりたまえば、弥陀仏をば不断光仏ともうすなり。「是人」というは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人ともうす。虚仮疑惑のものをば非人という。非人というは、ひとにあらずときらい、わるきものというなり。是人は、よきひとともうす。「摂護不捨」ともうすは、「摂」は、おさめとるという、「護」は、ところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらわず、信心ある人をば、ひまなくまもりたまうとなり。まもるというは、異学異見のともがらにやぶられず、別解別行のものにさえられず、天魔波旬におかされず、悪鬼悪神なやますことなしとなり。「不捨」というは、信心のひとを、智慧光仏の御こころにおさめまもりて、心光のうちに、ときとしてすてたまわずと、しらしめんともうす御のりなり。「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。「此亦是現生護念」というは、このよにてまもらせたまうとなり。本願業力は信心のひとの強縁なるがゆえに、増上縁ともうすなり。信心をうるをよろこぶ人をば、『経』(華厳経)には、「諸仏とひとしきひと」と、ときたまえり。