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 首楞厳院の源信和尚のたまわく、「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集)と。この文のこころは、われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえて、みたてまつるにあたわずといえども、大悲ものうきことなくして、つねにわがみをてらしたまうと、のたまえるなり。
 「其有得聞彼仏名号」(大経)というは、本願の名号を信ずべしと、釈尊ときたまえる御のりなり。「歓喜踊躍乃至一念」というは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちて、かねてよろこぶこころなり。「踊」は、天におどるという、「躍」は、地におどるという、よろこぶこころのきわまりなきかたちなり。慶楽するありさまをあらわすなり。「慶」は、うべきことをえて、のちによろこぶこころなり。「楽」は、たのしむこころなり。これは、正定聚のくらいをうるかたちをあらわすなり。「乃至」は、称名の遍数のさだまりなきことをあらわす。「一念」は功徳のきわまり、一念に万徳ことごとくそなわる、よろずの善、みなおさまるなり。「当知此人」というは、信心のひとをあらわす御のりなり。「為得大利」というは、無上涅槃をさとるゆえに、「則是具足無上功徳」とものたまえるなり。「則」というは、すなわちという、のりともうすことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならず、もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり。自然に、さまざまのさとりを、すなわちひらく法則なり。法則というは、はじめて行者のはからいにあらず。もとより不可思議の利益にあずかること、自然のありさまともうすことをしらしむるを、法則とはいうなり。一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらわすを、法則とはもうすなり。
 『経』(大経)に、「無諸邪聚 及不定聚」というは、「無」は、なしという。「諸」は、よろずのこととい