巻次 - 591頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 (五) 一 性信御坊 親鸞 信心をえたる人はかならず正定聚のくらいに住するがゆえに、等正覚のくらいともうすなり。いまの『大無量寿経』に、摂取不捨の利益にさだまるを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には、等正覚ととき給えり。その名こそかわりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつくらいなり。等正覚ともうすくらいは、補処の弥勒とおなじくらいなり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆえに、弥勒におなじととき給えり。さて、『大経』には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならいは申すなり。しかれば、弥勒におなじくらいなれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべしとしらせ給え。弥勒すでに無上覚にその心さだまりて、あかつきにならせ給うによりて、三会のあかつきと申すなり。浄土真実の人もこのこころをこころうべきなり。光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。これは弥勒とおなじくということを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心の人は如来とひとしと申すこころなり。正嘉元年 丁巳 十月十日 親鸞性信御坊(六) これは『経』の文なり。『華厳経』に、「信心歓喜者与諸如来等」というは、信心をよろこぶひとは 紙面画像を印刷 前のページ p591 次のページ 第二版p722~724へ このページの先頭に戻る