巻次 - 643頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 執持鈔1一 本願寺聖人の仰せに云わく、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆえに。臨終まつこと、来迎たのむことは、諸行往生のひとにいうべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆえに正定聚に住するがゆえに、かならず滅度にいたる。かるがゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなわち第十八のこころなり。臨終をまち、来迎をたのむことは諸行往生をちかいまします第十九の願のこころなり。」2一 また、のたまわく、「「是非しらず 邪正もわかぬこの身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師を このむなり」。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをば、かえりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからうべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かえすがえす如来の御ちかいにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者というなり。されば、われとして浄土へまいるべしとも、また地獄へゆくべしとも、さだむべからず。故聖人 黒谷源空聖人の御ことばなり の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもわるべし」と、たしかにうけたまわりしうえは、たとい地獄なりとも、故聖人のわたらせたまうところへまいるべしとおもうなり。このたびもし善知識にあいたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあずかりて、弥陀の本願をきき、 紙面画像を印刷 前のページ p643 次のページ 第二版p787・788へ このページの先頭に戻る