巻次 - 653頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 べからず、と。また、たとい、念仏すというとも、悪業深重ならば、往生すべからず、と。このおもい、ともに、はなはだ、しかるべからず。もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもいのままにそなえて生死を出離し、浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずとも、なにの不足かあらん。そのこといずれも、こころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながら、すなわちおこし、善根をばあらませど、うることあたわざる凡夫なり。かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまわんための五劫思惟の本願なるがゆえに、ただあおぎて仏智を信受するにしかず。しかるに、善機の念仏するをば、決定往生とおもい、悪人の念仏するをば、往生不定とうたがう。本願の規模、ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。おおよそ、凡夫引接の無縁の慈悲をもって、修因感果したまえる別願所成の報仏報土へ、五乗ひとしくいることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとい読誦大乗解第一義の善機たりというとも、おのれが生得の善ばかりをもって、その土に往生すること、かなうべからず。また、悪業はもとより、もろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとして、その土へのぞむべきにあらず。しかれば、機にうまれつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず、失ともならざる条、勿論なり。さればこの善悪の機のうえにたもつところの、弥陀の仏智をつのりとせずよりほかは、凡夫、いかで往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずとはいえ。ここをもって、光明寺の大師、「言弘願者如大経説 一切善悪凡夫得生者 莫不皆乗阿弥陀仏 大願業力為増上縁也」(玄義分)とのたまえり。文のこころは、弘願というは、『大経』の説のごとし。一切善悪凡夫のうまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力にの 紙面画像を印刷 前のページ p653 次のページ 第二版p797・798へ このページの先頭に戻る