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るるは、念仏往生の機なればなり。如来教法元無二なれども、正為衆生機不同なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり。諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず。至心信楽の帰命の一心、他力よりさだまるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識におうて、聞持する平生のきざみに治定するあいだ、この穢体亡失せずといえども、業事成弁すれば、体失せずして往生すと、いわるるか。本願の文あきらかなり。かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は、臨終を期し、来迎をまちえずしては、胎生辺地までもうまるべからず。このゆえに、この穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりて、そのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて、定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いずれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。
15一 真宗所立の報身如来、諸宗通途の三身を開出する事。
 弥陀如来を報身如来とさだむること、自他宗をいわず、古来の義勢、ことふりんたり。されば荊溪は、「諸教所讃多在弥陀」(止観輔行)とものべ、檀那院の覚運和尚は、また「久遠実成弥陀仏 永異諸経之所説」(念仏宝号)と釈せらる。しかのみならず、わが朝の先哲は、しばらくさしおく、宗師 異朝の善導大師 の御釈にのたまわく、「上従海徳初際如来、乃至今時釈迦諸仏、皆乗弘誓、悲智双行」(法事讃)と等、釈せらる。しかれば、海徳仏より本師釈尊にいたるまで、番番出世の諸仏、弥陀の弘誓に乗じて、自利利他したまえるむね、顕然な