巻次 - 665頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 「敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」文。この文のこころは、大慈阿弥陀仏を敬礼したてまつるなり。妙教流通のために来生せるものなり。五濁悪時悪世界のなかにして、決定して、すなわち無上覚を、えしめたるなり、といえり。蓮位ことに皇太子を恭敬し尊重したてまつる、とおぼえて、ゆめさめて、すなわちこの文をかきおわりぬ。わたくしにいわく、この夢想の記をひらくに、祖師聖人、あるいは観音の垂迹とあらわれ、あるいは本師弥陀の来現としめしまします事、あきらかなり。弥陀・観音一体異名、ともに相違あるべからず。しかれば、かの御相承、その述義を口決の末流、他にことなるべき条、傍若無人といいつべし。しるべし。14一 体失、不体失の往生の事。 上人 親鸞 のたまわく、先師聖人 源空 の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。小坂の善恵房 証空 は、体失してこそ往生はとぐれと云々 この相論なり。ここに同朋のなかに勝劣を分別せんがために、あまた大師聖人 源空 の御前に参じて申されていわく、善信御房と善恵御房と法文諍論のことはんべりとて、かみくだんのおもむきを一々にのべ申さるるところに、大師聖人 源空 のおおせにのたまわく、善信房の体失せずして往生すと、たてらるる条は、やがて、さぞと、御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。これによりて両方の是非わきまえがたきあいだ、そのむねを衆中よりかさねてたずね申すところに、おおせにのたまわく、善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さ 紙面画像を印刷 前のページ p665 次のページ 第二版p810~812へ このページの先頭に戻る