巻次 - 678頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 らば、付仏法の外道か。祖師の御悪名といいつべし。もっともおどろきおもいたまうところなり。いかに行者の名字をしるしつけたりというとも、願力不思議の仏智をさずくる善知識の実語を領解せずんば、往生不可なり。たとい名字をしるさずというとも、宿善開発の機として、他力往生の師説領納せば、平生をいわず、臨終を論ぜず、定聚のくらいに住し、滅度にいたるべき条、経釈分明なり。このうえは、なにによりてか経釈をはなれて、自由の妄説をさきとして、わたくしの自義を骨張せんや。おおよそ本願寺の聖人御門弟のうちにおいて二十余輩の流々の学者達、祖師の御口伝にあらざるところを禁制し、自由の妄義を停廃あるべきものをや。なかんずくに、かの名帳と号する書において序題をかき、あまっさえ意解をのぶと云々 かの作者において誰のともがらぞや。おおよそ師伝にあらざる謬説をもって、祖師一流の説と称する条、冥衆の照覧に違し、智者の謗難をまねくものか。おそるべし、あやぶむべし。2一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。 それ聖道・浄土の二門について生死出過の要旨をたくわうること、経論章疏の明証ありといえども、自見すればかならずあやまるところあるによりて、師伝口業をもって最とす。これによりて意業におさめて出要をあきらむること、諸宗のならい勿論なり。いまの真宗においては、もっぱら自力をすてて他力に帰するをもって、宗の極致とするうえは、三業のなかには口業をもって他力のむねをのぶるとき、意業の憶念帰命の一念おこれば、身業礼拝のために、渇仰のあまり瞻仰のために、絵像木像の本尊をあるいは彫刻しあるいは画図す。しかのみならず、仏法示誨の恩徳を恋慕し仰崇せんがために、三国伝来の祖師・先徳の尊像を図絵し安置 紙面画像を印刷 前のページ p678 次のページ 第二版p826・827へ このページの先頭に戻る