巻次 - 686頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 行者においては、あとを娑婆にとおざかり、心を浄域にすましむるうえは、なにによりてかこの決判におよぶべきや。しかるに、二季の時正をえりすぐりて、その念仏往生の時分とさだめて起行をはげますともがら、祖師の御一流にそむけり。いかでか当教の門葉と号せんや。しるべし。12一 道場と号して、簷をならべ牆をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事。 凡そ真宗の本尊は、尽十方無碍光如来なり。かの本尊所居の浄土は究竟如虚空の土なり。ここをもって、祖師の『教行証』には、「仏はこれ不可思議光仏、土はまた無量光明土なり」とのたまえる、これなり。されば、天親論主は、「勝過三界道」(浄土論)と判じたまえり。しかれども、聖道門の此土の得道という教相にかわらんために、他土の往生という廃立をしばらくさだむるばかりなり。和会するときは、此土・他土一異に、凡聖不二なるべし。これによりて念仏修行の道場とて、あながち局分すべきにあらざるか。しかれども、廃立の初門にかえりて、いくたびも為凡をさきとして、道場となづけてこれをかまえ、本尊を安置し奉るにてこそあれ、これは行者集会のためなり。一道場に来集せんたぐい、遠近ことなれば、来臨の便宜不同ならんとき、一所をしめてもことのわずらいありぬべからんには、あまたところにも道場をかまうべし。しからざらんにおいては、町のうち、さかいのあいだに、面々各々にこれをかまえて、なんの要かあらん。あやまってことしげくなりなば、その失ありぬべきものか。そのゆえは、「同一念仏無別道故」(論註)なれば、同行はたがいに四海のうちみな兄弟のむつびをなすべきに、かくのごとく嫌別隔略せば、おのおの確執のもとい、我慢の前相たるべきをや。この段、祖師の御門弟と号するともがらのなかに、当時さかんなりと云々 祖師聖 紙面画像を印刷 前のページ p686 次のページ 第二版p835・836へ このページの先頭に戻る