巻次
-
835頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

起行・作業は、せらるべきによりて、行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸のいいあり。このうえは、あながち中陽院の衆聖、衆生の善悪を決断する到彼岸の時節をかぎりて、安心・起行等の正業をはげますべきにあらざるか。かの中陽院の断悪修善の決断は、仏法疎遠の衆生を済度せしめんがための集会なり。いまの他力の行者においては、あとを娑婆にとおざかり、心を浄域にすましむるうえは、なにによりてかこの決判におよぶべきや。しかるに、二季の時正をえりすぐりて、その念仏往生の時分とさだめて起行をはげますともがら、祖師の御一流にそむけり。いかでか当教の門葉と号せんや。しるべし。
(12)一 道場と号して、簷をならべ牆をへだてたるところにて、各別各別に会場をしむる事。
 凡そ真宗の本尊は、尽十方無碍光如来なり。かの本尊所居の浄土は究竟如虚空の土なり。ここをもって、祖師の『教行証』には、「仏はこれ不可思議光仏、土はまた無量光明土なり」とのたまえる、これなり。されば、天親論主は、「勝過三界道」(浄土論)と判じたまえり。しかれども、聖道門の此土の得道という教相にかわらんために、他土の往生という廃立をしばらくさだむるばかりなり。和会するときは、此土・他土一異に、凡聖不二なるべし。これによりて念仏修行の道場とて、あながち局分すべきにあらざるか。しかれども、廃立の初門にかえりて、いくたびも為凡をさきとして、道場となづけてこれをかまえ、本尊を安置し奉るにてこそあれ、これは行者集会のためなり。一道場に来集せんたぐい、遠近ことなれば、来臨の便宜不同ならんとき、一所