巻次 - 687頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 人御在世のむかし、かつてかくのごとくはなはだしき御沙汰なしと、まのあたりうけたまわりしことなり。ただ、ことにより、便宜にしたがいてわずらいなきを、本とすべし。いま謳歌の説においては、もっとも停止すべし。13一 祖師聖人の御門弟と号するともがらのなかに、世・出世の二法について得分せよという名目を行住坐臥につかう、こころえがたき事。 それ得分という畳字は、世俗よりおこれり。出世の法のなかに経・論・章・疏をみるに、いまだこれなし。しかれども、おりによりときにしたがいて、ものをいわんときは、このことば出来せざるべきにあらず。しかるに、謳歌のごとくんば、造次顚沛、このことばをもって規模とすと云々 『七か条の御起請文』に、「念仏修行の道俗・男女、卑劣のことわりをもって、なまじいに法門をのべば、智者にわらわれ、愚人をまよわすべし」と云々 かの先言をもっていまを案ずるに、すこぶるこのたぐいか。もっとも智者にわらわれぬべし。此のごときのことば、もっとも頑魯なり。荒涼に義にもあたらぬ畳字をつかうべからず。すべからくこれを停止すべし。14一 なまらざる音声をもって、わざと片国のなまれるこえをまなんで念仏する、いわれなき事。 それ五音七声は、人々生得のひびきなり。弥陀浄国の水鳥・樹林のさえずる音、みな宮・商・角・徴・羽にかたどれり。これによりて曾祖師聖人のわが朝に応をたれましまして、真宗を弘興のはじめ、こえ仏事をなすいわれあればとて、かの浄土の依報のしらべをまなんで、迦陵頻伽のごとくなる能声をえらんで念仏を修せし 紙面画像を印刷 前のページ p687 次のページ 第二版p836・837へ このページの先頭に戻る