巻次
-
695頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

「令諸衆生」の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」(十四行偈)の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」(正信偈)とも、「不断煩悩得涅槃」(同上)とも、「入正定聚之数」(論註)とも、聖人釈しましませり。これすなわち、「即得往生」の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、「共発金剛心」の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」とも、ならいはんべれ。まったくわが我執をもって随分に是非をおもいかたむるを他力に帰すとはならわず。これを金剛心ともいわざるところなり。三経・一論、五祖の釈以下、当流の高祖 親鸞 聖人自証をあらわしまします御製作『教行証』等にみえざるところなり。しからば、なにをもってかほしいままに自由妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他の過、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。
20一 至極末弟の建立の草堂を称して本所とし、諸国こぞりて崇敬の聖人の御本廟本願寺をば参詣すべからずと諸人に障碍せしむる、冥加なきくわだてのこと。
 それ慢心は、聖道の諸教にきらわれ、「仏道をさまたぐる魔」と、これをのべたり。わが真宗の高祖光明寺の大師、釈してのたまわく、「憍慢弊懈怠 難以信此法」とて、「憍慢と弊と懈怠とは、もってこの法を信ずることかたし」とみえたれば、憍慢の自心をもって仏智をはからんと擬する不覚鈍機の器としては、さらに仏智無上の他力をききうべからざれば、祖師の御本所をば蔑如し、自建立のわたくしの在所をば本所と自称するほどの冥加を存ぜず、利益をおもわざるやから、大憍慢の妄情をもっては、まことにいかでか仏智無上の他力