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 いまきこゆる邪義のごとくは、「煩悩成就の凡夫の妄心をおさえて金剛心といい、行者の三業所修の念仏をもって一向一心の行とす」と云々 此の条、つやつや、自力・他力のさかいをしらずして、人をもまよわし、われもまようものか。そのゆえは、まず「金剛心成就」(行巻)という、金剛はこれたとえなり。凡夫の迷心において金剛に類同すべき謂なし。凡情はきわめて不成なり。されば大師(善導)の御釈(序分義)には、「たとい清心をおこすといえども、みずに画せるがごとし」と云々 不成の義、これをもってしるべし。しかれば、凡夫不成の迷情に「令諸衆生」(大経)の仏智満入して不成の迷心を他力より成就して、「願入弥陀界」(玄義分)の往生の正業成ずるときを、「能発一念喜愛心」(正信偈)とも、「不断煩悩得涅槃」(同)とも、「入正定聚之数」(行巻)とも、聖人釈しましませり。これすなわち「即得往生」(大経)の時分なり。この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、「共発金剛心」の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、自力をすてて他力に帰するともなづけ、また「即得往生」とも、ならいはんべれ。まったくわが我執をもって随分に是非をおもいかたむるを他力に帰すとはならわず。これを金剛心ともいわざるところなり。三経一論、五祖の釈以下、当流の高祖 親鸞 聖人自証をあらわしまします御製作『教行証』等にみえざるところなり。しからば、なにをもってかほしいままに自由妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他の過、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。