巻次 - 844頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 かるべしといえども、それは仏智を次第相承しまします願力の信心、仏智よりもよおされて、仏智に帰属するところの一味なるを仰崇の分にてこそあれ。仏身・仏智を本体とおかずして、ただちに凡形の知識をおさえて「如来の色相と眼見せよ」とすすむらんこと、聖教の指説をはなれ、祖師の口伝にそむけり。本尊をはなれて、いずくのほどより知識は出現せるぞや。荒涼なり、髣髴なり。ただ実語をつたえて口授し、仏智をあらわして決得せしむる恩徳は、生身の如来にもあいかわらず。木像ものいわず経典くちなければ、つたえきかしむるところの恩徳をみみにたくわえん行者は、謝徳のおもいを専らにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ。その知識のほかに別の仏なしということ、智者にわらわれ愚者をまよわすべきいい、これにあり。あさまし、あさまし。(19)一 凡夫自力の心行をおさえて、仏智証得の行体という、いわれなき事。 三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とおしえおきまします祖師 親鸞 聖人の御釈を拝見せざるにや。ちかごろこのむねをそむいて自由の妄説をなして、しかも祖師の御末弟と称する、この条ことにもっておどろきおぼゆるところなり。まず能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師御相承の口伝にはあいかないはんべれ。 紙面画像を印刷 前のページ p844 次のページ 初版p693・694へ このページの先頭に戻る