巻次
718頁
表示設定
ブックマーク
表示設定
文字サイズ
書体
  • ゴシック
  • 明朝
カラー
テキスト情報
本文
画像情報
画像情報
本文

『法事讃』にいわく、「一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 魏魏独坐度衆生」といえり。こころは「ひとたび坐してうつることなく、またうごきたまわず。後際を徹窮して身光をはなつ、霊儀の相好真金色なり、魏魏としてひとり坐して衆生を度したまう」となり。この文のごとくならば、「ひとたび正覚をなりたまいしよりこのかた、まことの報身はうごきたまうことなし。ただ浄土に坐してひかりを十方にはなちて、摂取の益をおこしたまう」とみえたり。おおよそしりぞいて他宗のこころをうかがうにも、「まことにきたる」と執するならば、大乗甚深の義にはかないがたきをや。されば、真言の祖師善無畏三蔵の解釈にも、「弥陀の真身の相を釈す」として、「理智不二 名弥陀身 不従他方 来迎引接」といえり。こころは「法身の理性と報身の智品とこのふたつきわまりて、ひとつなるところを弥陀仏となづく。他方より来迎引接せず」となり。「真実報身の体は来迎の義なし」とみえたり。自力不真実の行人は、第十九の願にちかいましますところの「修諸功徳 乃至 現其人前」の文をたのみて、のぞみを極楽にかく。しかれどももとより諸善は本願にあらず、浄土の生因にあらざるがゆえに、報土の往生をとげず。もしとぐるもこれ胎生辺地の往生なり。この機のためには臨終を期し、来迎をたのむべしとみえたり。これみな方便なり。されば願文の「仮令」の句は、現其人前も一定の益にあらざることをときあらわすことばなり。この機は聖衆の来迎にあずからず。臨終正念ならずしては辺地・胎生の往生もなお不定なるべし。しかれば本願にあらざる不定の辺地の往生を執せんよりは、仏の本願に順じて臨終を期せず来迎をたのまずとも、一念の信心さだまれば平生に決定往生の業を成就する念仏往生の願に帰して、如来の他力をたのみ、かならず真実報土の往生をとぐべきなり。