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一生をすつるとき、このことわりあらわるるところをさして、和尚(善導)は「この穢身をすてて、かの法性の常楽を証す」(玄義分)と釈したまえるなり。されば往生といえるも、生即無生のゆえに、実には不生不滅の義なり。これすなわち弥陀如来清浄本願の無生の生なるがゆえに、法性清浄畢竟無生なり。さればとて、この無生の道理を、ここにして、あながちにさとらんとはげめとにはあらず。無智の凡夫は法性無生のことわりをしらずといえども、ただ仏の名号をたもち、往生をねがいて浄土にうまれぬれば、かの土はこれ無生のさかいなるがゆえに、見生のまどい、自然に滅して無生のさとりにかなうなり。この義、くわしくは曇鸞和尚の『註論』(論註)にみえたり。しかればひとたび安養にいたりぬれば、ながく生滅・去来等のまどいをはなる。そのまどいをひるがえして、さとりをひらかん一念のきざみには、実には来迎もあるべからずとなり。来迎あるべしといえるは、方便の説なり。
 このゆえに高祖善導和尚の解釈にも、弥陀如来は娑婆にきたりたまうと、みえたるところもあり。また、浄土をうごきたまわずと、みえたる釈もあり。しかれども当流のこころにては、「きたる」といえるは、みな方便なりとこころうべし。『法事讃』にいわく、「一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 魏魏独坐度衆生」といえり。こころは「ひとたび坐してうつることなく、またうごきたまわず。後際を徹窮して身光をはなつ。霊儀の相好真金色なり。魏魏としてひとり坐して衆生を度したまう」となり。この文のごとくならば、ひとたび正覚をなりたまいしより