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873頁
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このかた、まことの報身はうごきたまうことなし。ただ浄土に坐してひかりを十方にはなちて、摂取の益をおこしたまうと、みえたり。おおよそしりぞいて他宗のこころをうかがうにも、「まことにきたる」と執するならば、大乗甚深の義にはかないがたきをや。されば、真言の祖師善無畏三蔵の解釈にも、「弥陀の真身の相を釈す」として、「理智不二 名弥陀身 不従他方 来迎引接」といえり。こころは、「法身の理性と報身の智品と、このふたつきわまりて、ひとつなるところを弥陀仏となづく。他方より来迎引接せず」となり。真実報身の体は来迎の義なしと、みえたり。自力不真実の行人は、第十九の願にちかいましますところの「修諸功徳 乃至 現其人前」(大経)の文をたのみて、のぞみを極楽にかく。しかれども、もとより諸善は本願にあらず、浄土の生因にあらざるがゆえに、報土の往生をとげず。もしとぐるも、これ胎生・辺地の往生なり。この機のためには臨終を期し、来迎をたのむべしとみえたり。これみな方便なり。されば願文の「仮令」の句は、「現其人前」も一定の益にあらざることをときあらわすことばなり。この機は聖衆の来迎にあずからず。臨終正念ならずしては、辺地・胎生の往生も、なお不定なるべし。しかれば本願にあらざる不定の辺地の往生を執せんよりは、仏の本願に順じて、臨終を期せず、来迎をたのまずとも、一念の信心さだまれば、平生に決定往生の業を成就する念仏往生の願に帰して、如来の他力をたのみ、かならず真実報土の往生をとぐべきなり。
 問うていわく、諸行の往生をもって辺地の往生ということ、いずれの文証によりてこころう