巻次 末 717頁 表示設定 ブックマーク 表示設定 文字サイズ あ あ あ 書体 ゴシック 明朝 カラー あ あ あ テキスト情報 本文 画像情報 画像情報 本文 きさだまりて、かならず滅度にいたるべきくらいをうるなり。このゆえに聖人の『浄土文類聚鈔』にいわく、「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無碍光耀朗 一如法界真身顕」といえり。文のこころは、「かならず無上浄信のあかつきにいたれば、三有生死のくもはる。清浄無碍の光耀ほがらかにして、一如法界の真身あらわる」となり。「三有生死のくもはる」というは、三界流転の業用よこさまにたえぬとなり。「一如法界の真身あらわる」というは、寂滅無為の一理をひそかに証すとなり。しかれども、煩悩におおわれ業縛にさえられて、いまだその理をあらわさず。しかるにこの一生をすつるとき、このことわりあらわるるところをさして、和尚は「この穢身をすててかの法性の常楽を証す」と釈したまえるなり。されば「往生」といえるも、生即無生のゆえに、実には不生不滅の義なり。これすなわち、弥陀如来清浄本願の無生の生なるがゆえに、法性清浄畢竟無生なり。さればとて、この無生の道理をここにして、あながちにさとらんとはげめとにはあらず。無智の凡夫は法性無生のことわりをしらずといえども、ただ仏の名号をたもち、往生をねがいて浄土にうまれぬれば、かの土はこれ無生のさかいなるがゆえに、見生のまどい、自然に滅して、無生のさとりにかなうなり。この義くわしくは曇鸞和尚の『註論』にみえたり。しかればひとたび安養にいたりぬればながく生・滅・去・来等のまどいをはなる。そのまどいをひるがえして、さとりをひらかん一念のきざみには、実には来迎もあるべからずとなり。来迎あるべしといえるは方便の説なり。このゆえに高祖善導和尚の解釈にも「弥陀如来は娑婆にきたりたまう」とみえたるところもあり、また「浄土をうごきたまわず」とみえたる釈もあり。しかれども当流のこころにては、「きたる」といえるはみな方便なりとこころうべし。 紙面画像を印刷 前のページ p717 次のページ 第二版p871・872へ このページの先頭に戻る